父がくれた“大切な景色”

作品「こもれび」は、小学生の頃の記憶にあった大切な景色の中の一つを、イギリスの小さな村の川が呼び醒ましてくれたおかげで描くことが出来ましたが―――

もう一つ、別の"大切な景色"の話をしようと思います。
それは、幼少の頃から中学生時代の長きに渡って頻繁に見ていたもので、家業として「織物」を営んでいた、実家の庭先での景色。思い返せば、画家への道とつながったのかな?と感じる、美しく忘れ難いものです。

言葉の説明だけですと、想像して頂けるかどうかわかりませんが、それは「織物」の工程の一つで…
様々な色に染め分けられた糸の束(幅10cm位で輪状に束ねてある)およそ20束ほどを、長い竹製の竿に通して吊るしてあり、そんな竹竿20~30本が、2m位の高さの物干しに等間隔でズラリと並び、乾燥させている光景です。

当時、父は織物の図案画をルーペでのぞき込んでは、苦労しながら色を調合し、「良い色を出すのはなかなか難しい」などと言いつつ、朝から糸束の染色作業を行っていました。
そして、私が学校から戻る頃には、染めの工程も終わっており、前述のような状態で、家の前庭に染め上がった糸束が干されていました。

まだ小さな子供時分には特に、空を埋め尽くすかのように並んだ色の洪水が、本当に圧巻の景色で、染めたての糸束がぶら下げれれた何本もの竹竿の下を、見上げながらくぐりぬけては「なんて綺麗な色なんだろう」と、半ばうっとりしながら眺め入っていたものでした。

今になって振り返ってみれば…並んでいた糸束の集まりは、専門家が描いた図案画と同じ色・それぞれの色の配分比率でそこにあったわけですから、「色彩構成」として成立しており、美しく見えたのも当然だったのだと思います。

そんな風に、多感な時期を身近に「色彩」というものに接して育った環境のおかげで、色彩感覚を自然と養えていたのかもしれません。

父は、織物の仕事を始める前、家業である呉服屋で働いていました。その店は、大阪で現在も呉服屋やファッションの関係の問屋が多く集まっている船場という街に在り、屋号は「ゑり京」といいました(今はもうありませんが)。

しかし、太平洋戦争が始まってからは、兵庫県の静かな里へと戦禍を逃れ…、慣れ親しんでいた織物で、今度は"作る"側へと転身して、前述の仕事をゼロからスタートさせたのでした。

そして、現在の自分はと言えば、キャンバスという"布"に"図の案"をのせてゆくという、ある意味そこに通じる仕事を日々行っているわけで、少しばかりの縁を感じてもいます。

生前、父が私の絵を褒めてくれる時の言葉は、決まってこうでした。
「おお、良い色が出ておるなぁ…」と。

笹倉鉄平

2011年07月01日